キリストに倣いて(4.2.1 神の大なる仁愛は、この秘跡において人に示されること)

 弟子のこえ

 ああ主よ、私は主のおん慈しみと、主の大なるおん哀れみとを頼みとして、病んではわが救主、飢え渇いては生命の泉、困窮しては天の王、しもべとしてはその主、被造物としては造物主、寂しい者としては優しい慰安者なる主のみもとに行くのであります。

 けれども主が私のもとにおいでになるとは、これは何によるのでしょうか?また、私がいかなる者であるために、主はご自身を私にお授けになるのでしょうか。

 どうしてこういう罪びとが、主のみ前に出られるのでしょう?またどうして主がかたじけなくも罪びとのもとにおいでになるのでしょう?

 主は主のしもべをご存じであり、またかれにこのご愛顧を受けるに足るようなよいところなど一つもないことをご存じであります。

 ですから私は、私の取るに足らぬ者であることを告白し、主のご恩を認め、主のご仁慈を賛美し、主の溢れるばかりのおん愛を感謝いたします。

 なんとなれば、主がかようにしてくださるのは、私の功績に対してではなく、主ご自身のためであって、すなわち、私に主のご仁慈をいっそうよく知らせ、さらに大なる愛を与え、謙遜をもっと完全に勧めたもうためだからであります。

 それで、これは主のみ意に適うことであって、主はそうせよとお命じになりましたから、私も主の哀れみ深いおん慈しみを喜んで、私の罪が妨げとならぬようにとねがうのであります。