キリストに倣いて(3.52.1 人は自分を、慰めを受けるに足らず罰に値する者と思うべきこと)

  主よ、私は主のおん慰めやいかなる霊的ご訪問をもいただく値打のない者であります。したがって主が私を貧しさとさびしさとの裡に捨てておおきになるのも当然のおん処置に過ぎません。

 なんとなれば、たとい私が海のように涙を流すことができたとしても、まだ私はおん慰めをこうむるに値しないからであります。

 私はひどく、またしばしば、主の背き、多くのことで主に対し罪をおかしましたから、私の受けるべきものは鞭撻と懲罰との外にはありません。

 ですからどう考えても正しい道理の上からは、私は露ほどのおん慰めすらいただく値打がないのであります。

 けれども主は、仁慈、哀れみ深い神で、お造りになったものの滅亡びることをお欲みになりませんので、哀れみの器に対しておん仁慈の豊かなことを示すために、主のしもべが自分になんの功績も有せぬにかかわらず、人間の方法ではおよびもつかぬ慰めを、これにお与えくださるのであります。

 というのは、主のおん慰めは、人間の語らいのようなものではないからであります。