キリストに倣いて(3.50.4 人はさびしいとき、いかに自分を神のおん手にお委ねすべきか)

 なんとなれば、主を愛するためにこの世で苦しみ悩むのは、たといいくたびであろうとも、まただれによってであろうとも、みな主のお許可があってそうなるのであって、これは主の友に対する一つのお恩恵なのであります。

 主のご計画とみ摂理とがなく、原因なくして地上に行なわれることは一つもありません。

 「ああ主よ、主がわたしを恥ずかしめくじきたもうのはよいことであります。それによって私は主のみ掟を学ぶことができ」(詩篇118.71)、また心のあらゆる高慢と僭越とをなげうつことができるからであります。

 「恥ずかしさに顔をかくす」(詩篇43.15)のは私のためになります。それによって私は人からよりもむしろ主から、自分の慰めを求めるようになるからであります。

 私はそれによってまた、主の測り知れぬおん審判の恐るべきことも知りました。主は義人と悪人とをともにお苦しめになります。それでも公平正義でないことはないのであります。