キリストに倣いて(4.7.4 良心の糾明と遷善の決心について)

 なんとなれば罪滅しのためには、ミサ聖祭および聖体拝領のとき、キリストのおんからだをささげるとともに、自分を神にまったくささげるよりもとうとい奉献、大きい償いはほかにないからである。

 もし人が赦免と恩恵とを得ようとしてわたしのもとに来るたびに、自分のできるだけのことをして真に痛悔するならば、「わたしは生きている(と主はおおせられる)わたしは罪びとの死を喜ばずその改心して生きることを望む、わたしはもはやその罪を記憶せず」(エゼキエル書33.11、18.22)かれに対してすべてをゆるすだろう。