キリストに倣いて(4.3.2 しばしば聖体を拝領するのは有益であること)
なにとぞご自身を私にお授け下さい、そうすればそれで十分でございます。なんとなれば主なしには、いかなる慰めも役に立たないからであります。
主なしには、私は存在することができず、主のお来訪がなければ、私は生きて行くことができません。
それゆえ、私はたびたび主のみもとに来て、主を拝領し、私の救いの妙薬としなければならないのであります。この天上の糧がなければ、おそらくは、道で倒れるでしょうから。
なんとなれば、ああいとも慈悲深きイエズスよ、主はかつて群衆に説教し、さまざまの病気を治しておいでになったとき、「わたしはかれらを空腹のまま去らせたくない、おそらくは道でたおれるであろう。」(マタイ15.32)と仰せられたからであります。
なにとぞ私に対してもいま同様にしてください、主は主を信ずる者を慰めるため、この秘跡のうちにご自身を残しておかれたからであります。
と言うのは、主は魂のいとも甘美な食物であらせられ、ふさわしく主を食する者は永遠の光栄にあずかり、これを相続する者となるからであります。
私はこのようにしばしば倒れて罪を犯し、このように速かにゆるみ弱ります、ですからたびたび祈り告白し、また主の聖体を拝領して、改め、潔め、燃やすことは、私にとってきわめて必要でありまして、もし長い間これを受けずにいれば、おそらくは私は自分の聖なる志をなげうつにいたるでしょう。