キリストに倣いて(4.11.2 キリストの聖体と聖書とは信者の霊魂にもっとも必要であること)

 主を主ご自身の神としての光輝のうちに仰ぎ見ることは、私の目のたえ得るところではありませんし、主のみ稜威の赫々たる栄光の前には、全世界も存在することができないでしょう。

 それで、主が秘跡のうちに姿をかくしておいでになるのは、私の弱さを哀れみたもうからであります。

 諸天使が天において礼拝するお方を、私もほんとうにわがものとし、礼拝するのであります。ただ私はそれをまだ信仰によってするのに、かれらは隔ての幕もなしに目のあたり見てするのであります。

 永遠の日の曙光がさしそめて、形象の影が消え失せるまでは、私は真の信仰の光で満足し、それによって歩まなければなりません。

 しかし完全なものが来れば、秘跡の用はなくなるでしょう。なんとなれば天の栄光のうちにいる至福な人々は、秘跡という薬を必要としないからであります。

 かれらは神のみ前で終わりなく楽しみ、顔と顔とを合わせてその栄光を見、光栄から光栄に進んで、測り知れぬ神の像に化し、肉となりたもうた神のみ言葉を、原始からあったままに、永遠に存するままに、味わうのであります。